激甘思想入門〜自分を正当化するためのトントロの日記

若い者には辛い世の中、甘くおいしくいただきましょう。

事の顛末と今後についてー中編

前回の続き。

休みが取れない話までだったかな……

 

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休みが取れないまま仕事をしていましたが、引き継ぎ資料だの派遣さんの立ち上げだのを終え、11月上旬にようやく休めることになりました。

五日間。

え、一週間って話じゃなかったの!?って心のどこかでは思いましたが、会社の仕事を持ってる以上あーだこーだ言っても無駄なのは理解したので、諦めました。

金沢行ったり敦賀行ったり京都行ったり丸2日寝たりして、なんとなく心が休まった気がしました。しかし、この頃は心ではなくカラダがヤバかったことにボクは気づいていませんでした。

仕事に復帰して三週間後、またカラダが不調になりました。トイレとベッドを往復しているような状態だったので、諦めて休みました。

この頃から処方薬が手放せなくなり、半月に一回ほど病院に通うことになりました。

いまなら休めばよかったのに、と考えられるのですが、弊社では12月〜3月は繁忙期。

若手男性オペレーターが貴重な弊社では、自分みたいなちんちくりんでも戦力。休むわけにはいかないと思っていたような気がします。

 

とかなんとかで1月2月と病院に通いながら馬車馬のように働きました。朝は9時に家を出て、終電で帰り、また……というルーチンです。当然のことながら残業も増え、日に日に体調がおかしくなるばかりでした。

このころ、持っていたクライアントを剥がされ、オペレーターの数合わせとして急場の教育を施され、いろいろな仕事に携わるようになれました。

とはいえ急場。いままでやっていたこととは全然違うことを3日という短期間で詰め込み、やりながら細かい技術を教わる、という方式でした。

もちろん、自分の上では罵詈雑言が飛び交い、それを一つ一つメモに書きながら作業にあたりました。いま思うとこのへんがストレスを増していたのかな、と回顧します。

 

そんなこんなで2月を無事、パワープレーで押し切った3月、ついにドクターストップを言い渡されました。

血中のCRP(炎症とかが起こると血液の中で増えるタンパク質。詳しいことは医学部の皆さまに聞いて……)が下がらず、一週間の安静が必要とのことでした。

仕方なく、実家で療養生活を一週間送りました。久々の実家は空気が心地よかったのを覚えています。

 

まだ続く。